1886年に設立した日本女性団体「日本キリスト教婦人矯風会」(以下、矯風会)に関心を持ち、その資料室にお邪魔するようになったのは2017年頃だった。
矯風会は、1894年に矢島楫子等が購入した新大久保の土地で、今も活動している。娼妓をやめた女性の支援施設「慈愛館」設立のために購入された1600坪の土地だ。慈愛館は慈愛寮と名前を変え、支援が必要な妊産婦を受け入れ続けている。火事や戦火で昔の面影はもちろんないが、それでも、この場所にいると、130年間に渡り、この場で女性たちが祈り、闘ってきたものの熱に触れるような思いになる。
一度、矯風会の資料室で調べ物をしている中、初代会頭だった矢島楫子のデスマスクを見せていただいたことがある。まさか、その積み重ねた段ボールの中に、そんな大切なものが!という、驚きの対面だった。夫のDVから逃れ、上京する船の中で、これからは自分の人生の楫(かじ)を取ると決意し「楫子」と自身に名前をつけたのは、矢島が40代前半のときだった。そのようなエピソードを持つ矢島らしい頬骨の高い強い表情だった。「男だったら銅像建てられているのに」。デスマスクに向かい、思わずニマニマしてしまう。だって女はデスマスクを段ボールにしまいっぱなし。っていうか、何のためにデスマスク? ああ、この平らな感じ、この緊張感ない感じ、こんな女のゆるさを私はとても大切に感じる。
矯風会に通いはじめた頃、私は迷子になっていた。フェミニズムの視点でセックスグッズショップをはじめて20年経っていた。女性が自由に安全に性を楽しめる社会を。そういう意思で1996年に始めた店だったが、20年間で出会ったのは、自由になるどころか、性で傷つく女性たちの姿だった。ふと立ち止まるような思いになったのだ。いったい私たちは何を得て、何を失ってきたのだろう。フェミニズムが女性の痛みに寄り添う思想であれば、私が今、立つべき場所、出会うべき人は誰だろう。
もちろん、矯風会のことは知っていた。一夫一婦制、廃娼、禁酒を求めた矯風会は、フェミニズムの文脈では家父長的クリスチャンの運動として批判されこそすれ、評価の対象ではなかった。それでも、女が売買される社会で、夫が妻を殺しても罪にならないような時代に、一夫一婦制を求めることもまた、命がけだった。しかも矢島楫子をはじめ矯風会に関わった女性に、夫の酒乱やDV、女性関係に苦しんだ当事者が少なくなかったことは、彼女たちの運動の切実さ、当事者性を物語っている。矯風会に出会いなおす過程で、性の戦いを避けずに生きた女性たちの物語は、今の時代に必要なものに思えてきた。なにより、130年前と今、女の悲惨の色は、変わっていない。
慈愛寮には今も、困難を抱えた女性たちが途切れることなく訪れる。知的な障害を抱え性産業に従事し、客に妊娠させられた10代の女性。児童養護施設に育ち10代で妊娠し、そしてその子をやはり児童養護施設に渡すことになる女性も、1人や2人ではない。性暴力と無縁で生きてこられるような社会ではなく、貧困が固定化し再生産され諦めを強いられる時代だ。だからこそ、「あなたを信じる」という場、人が私たちには必要なのだと思う。それこそが、矯風会が実践した、シスターフッドをベースにするフェミニズムだ。
今年3月、性犯罪事件で、4件の無罪判決が報道された。それを受け4月11日に東京駅前に花をもって集まろう、とツイッターで呼びかけた。団体の動員を一切かけず、数十人来れば十分、という思いで向かったが、400人を下らない女性たちが集まった。驚いたのは、予定のスピーチが終わり1時間経っても誰も帰ろうとしなかったことだ。誰かが「話したい」と声をあげた。幼い頃に性被害を受け、そのトラウマで就学も就業もままならず、やっと手にした非正規の仕事でセクハラを受けた。「なぜ、被害者が転々としなくてはいけない!?」その叫びは、次の声を呼び、そしてまたその声が次の声を呼ぶように、私たちは語りはじめたのだ。私たちには話さなければいけないことが、たくさんある。
日本の近代、女の戦いの歴史は、まだもしかしたら入り口にいるのかもしれない。100年前の女たちもこんな風に、集まり、夜空に向かって悔しさの声をあげただろうか。先を生きた女性たちの姿に学びながら、未来への希望は今ここ、女性たちの語りにあるのだと信じたい。
『日本のフェミニズム since1886 性の戦い編』
北原みのり責任編集(河出書房新社、2017年)