「体罰とファシズム」「ジェンダーと大量殺人」
本書(2019年4月発行・かもがわ出版)の著者・森田ゆり氏は、米国と日本で、子ども・女性への虐待防止専門職の養成に30年以上携わってきた。
そして1997年に日本でエンパワメント・センターを設立し、行政、企業、民間の依頼により、多様性、人権問題、虐待、DVなどをテーマに日本全国で精力的に研修・講演活動をしている。また著作家でもある。
教師の体罰は、学校教育法で禁じられてきたが、今も、教育現場の体罰はなくなっていない。
親権者の体罰は、つい先日の児童虐待防止法の改正で、やっと禁止されたばかりだ。子どもへの虐待の悲惨な事件報道は、後を絶たない。
一方、日本は、戦後、憲法9条で「戦争の放棄」を高らかに宣言したが、1950年には、再軍備の道を歩み始め、ついに2015年には、集団的自衛権まで容認する安保法制が強行採決された。
さらには憲法9条を骨抜きする憲法改悪の企てが進められ、「戦争できる日本」への道をひた走る。
著者は、体罰と戦争の共通点を指摘する中で、どちらにも大義名分があるという。
「口で言っても言うことをきかないから体罰をする」「ならず者国家だからやむなく空爆する」と。
だからこそ、どちらも「時には必要」と考える限り、なくならないと言う。
そしてどちらも「絶対にしないと誓い、その宣言実行システムが必要」だと指摘する。
また「体罰は、しばしばそれをしているおとなの感情のはけ口である」のに対して、「戦争は、戦争がもたらすばく大な利権欲求のはけ口であることが多い」と分析する。
また体罰は、「即効性があるので、他のしつけの方法を使えなくなってしまう」のに対し、戦争は「他の外交解決方法はないと思わせる」と指摘する。
さらには、体罰は「時には、取り返しのつかない事故を引き起こす」のに対し、戦争は「取り返しのつかない殺傷と環境破壊を確実に引き起こす」のである。
そして著者の分析は、「体罰とファシズム」「ジェンダーと大量殺人」にまで及ぶ。
希望は虐待防止の実践で得た知見に
「体罰とファシズム」では、ヒトラーの暴力性の由来を、彼が子ども時代に受けた体罰体験から論じたスイスの元精神分析家アリス・ミラーの研究を紹介している。
ヒトラーを熱狂的に支持したドイツ国民の心理についても、体罰がしつけの当然の方法としてあたりまえに行われていた、当時の時代背景から分析されていて興味深い。
「ジェンダーと大量殺人」では、大阪教育大学付属池田小学校襲撃事件の宅間守被告の公判の傍聴を続けた、著者ならではの分析に圧倒される。
宅間被告の犯行の動機について、元妻を殺す代わりにやったと報道されていたこと(宅間被告はDVの加害者であった)、刺殺した子ども8人のうち7人までが少女だったことから、著者はこの事件の本質は「ジェンダーと犯罪」であると考え、この事件の公判の傍聴を続けたという。
その中で、宅間被告自身が、DVの家庭の中で、父から体罰を受けて育ったことがわかる。
宅間被告は、10代後半にヒトラーや金日成に憧れ、独裁者として女に何でもできる彼らに憧れ、自分がヒトラーのように演説をしている姿を空想したという。
打ちのめされるような現実をつきつけられるが、本書の救いは、著者の子ども・女性への虐待防止の実践のなかで得られた知見が盛り込まれていて、そこに希望を見いだせることだ。
著者は、虐待のトラウマをもつ子どもを対象とした「アロハ・キッズ・ヨーガ」のBGM探しの中で、マイケル・ジャクソンの曲のすばらしさと彼の思想を知る。
そして次のような彼のことばで、本書を締めくくっている。
「ぼくたちがあきらめなければ、国々は武器を捨てるよ。そこに到達できるように世界を癒そう。」