裁判のなかで、セクシュアルーハラスメントや性暴力はどのように扱われているでしょうか。問題点を考えるため、2つの判例を取り上げてみました。
横浜の事件と秋田の事件。どちらも一審で敗訴したときの判決です。事実認定の仕方を見ていると、女性というのは性的な被害を受けたときには逃げるべきだ、抵抗すべきだ、抵抗できないのならそこで逡巡したり冷静に思いをめぐらすのはおかしいというような、非常にステレオタイプな考え方が目につきます。
そうしたジェンダー・バイアスのかかった目で事実認定をしてしまっていることが、まず問題です。
いうまでもなく、セクハラは突然起こります。しかも多くの場合、相手は上司や目上の人です、その信頼関係が崩され、しかも思いもしなかった性的な関心で自分がとらえられていることに気づいて、女性は非常なパニックを起こします。そのことが理解されていないのです。
被害を受けたときの恐怖感は、被害の直後だけでなくその後も延々と女性の生活を支配していくのですが、それについての理解も欠けているのが現状です。
また、ふだんとてもしっかりしていて、自己主張のできる人がこんなセクハラの被害にあうわけがない、何もできなかったなんて考えられないというようなことがよくいわれますが、これもステレオタイプな見方で、被害者の女性がとる態度は実際には千差万別です。
この一点について、裁判所もやはり目を曇らせて事実をみています。
さらに、こうしてみてくると、裁判所が問題にしているのは被害にあった女性の対応、態度ばかりで、加害者側の男性についてどうみるのかという視点が抜け落ちていることがわかります。性的な関係をもつにあたって、加害者の男性は被害者に対して積極的に同意を求めたのか、合意を得たのかという点を追及されるべきなのですが、その視点がまったく欠けているのです。
今日は裁判の例を挙げましたが、被害者が相談に行ったときの弁護士の対応しかり、検察官や警察官もしかりで、どこでもこのようなステレオタイプな決めつけ、ジェンダー的な偏見によって事件をみているのが現状です。方策としては司法関係者に対して教育研修を充実していく。それによって司法による被害者への二次被害を防止できるのではないかと考えています。
最後に、職場など社会に根を張っているセクハラ神話がもたらす被害の問題です。私自身、弁護士として仕事をしていてとても悩ましいところです。というのは、セクハラ裁判を提起した場合、女性の側に問題があるんだといったいわれのない風聞を職場で立てられるケースが少なからず起きているのです。すると裁判のなかで苦しめられ、まわりの者からも苦しめられて、職場に行くことができなくなる、休職したり、入院に追い込まれてしまいます。
せっかく被害回復のために訴訟を起こしても、その訴訟の中で苦しめられ、さらに孤立させられることがしばしばなのです。
このように、声を上げている女性たちを社会のセクハラ神話がつぶしてしまいかねない現実があり、弁護士としてはなかなか「裁判しようよ」と勧められないのです。被害を受けた事実を放置することはできません、でも、裁判をすればつぶされるかもしれない。そこを乗り越えられるという覚悟がなければ裁判ができないという、とてもつらい選択を迫らなければならないのが現状です。
これは司法の問題だけではありません。社会のなかで性や性被害について、男女を問わず、私たちが今どのような意識をもっているのか。そのような問いかけでもあると思っています。
–性暴力裁判にみるジェンダー的偏見~「ステレオタイプ」「神話」~ | ||||
◎横浜セクシャルハラスメント事件判決(平成7年3月24日)より | ||||
・抵抗したり、逃げたりできたはず | ||||
・悲鳴をあげて、助けを求めたりできたはず | ||||
◎秋田セクシャルハラスメント事件判決(平成9年1月28日)より | ||||
・反射的に助けを求める声をあげたり、抵抗するのが通常 | ||||
・被害者と加害者の関係、被害者の年齢、経歴からすれば通常の対応ではない | ||||
・冷静な思考に基づく対応で不自然 | ||||